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霊友会

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【創立】 昭和5年7月
【創始者】 久保角太郎(創立者 久保恩師)
小谷喜美(初代会長、小谷恩師)
【代表者】 第四代会長・大形市太郎
【信仰の対象】 仏所護念の本尊
【教典】 法華三部経・弥勒経・『妙法蓮華経・朝夕のおつとめ』等
【本部】 東京都港区麻布台1-7-8
【信者数】 1,702,685
【名称の変遷】 霊友会(大正13年)→ 霊友会教団(昭和24年)→ 霊友会(昭和53年)

 

【 沿革 】

霊友会(れいゆうかい)は、久保角太郎(かくたろう)がシャーマニズム(霊媒(れいばい)信仰)・法華信仰・先祖供養を混交した新教団を作ることを目的とし、兄嫁小谷キミ(喜美)を霊能者に仕立て上げ、創立した在家教団である。

 

久保(旧姓松鷹)角太郎は、明治25(1892)年1月、千葉県の湊村(現在の天津小湊町)に生まれている。このときすでに父は他界しており、角太郎が八歳のときに母も亡くなった。

 

小学校を卒業して上京し、大工の棟梁の家に住み込んだ角太郎は、その後、宮内省内匠寮(現在の宮内省管理部工務課)に技手として採用され、やがて寮総裁の仙石宗扶に見込まれ、その紹介によって養子として久保家に入った。

 

義母の志んは格式を重んじ、気性が激しく、しかも夜中に憑(つ)き物がついたように騒ぎ出すことが度々あった。角太郎は志んに仕え、心身ともに憔悴(しょうすい)しきっていたとき、兄安吉の知人を介して、西田無学の仏所護念(現在の関口嘉一等の創設による佛所護念会教団とは異なる)の教えを知った。

 

西田無学と角太郎

 

西田無学は本名を利蔵といい、自身が不軽菩薩であると確信して布教活動をしていた。西田は、法華経の経文「平等大慧 教菩薩法 仏所護念」の「仏所」を亡くなった人間の霊の入る処と解釈し、「仏所護念」とは、霊のいる場所を護り、念ずることであり、これこそ「先亡諸精霊の供養法」であると主張した。

 

さらにすべての霊を祀り、供養するために生・院・徳の三文字を用いた戒名を創案し、「祈願唱」と称する祈り言葉を作った。この西田の教えとは、

 

一、出家を否定し、在家仏教を主張する
一、夫婦双方の先祖を供養するため、総戒名という方式を用いる
一、無縁仏となった墓石を洗い、法名を写し帰って自分の家に祀り、供養する
一、『無量義経』訓読(開)、回向唱、『観普賢菩薩行経』訓読(結)、祈願唱などからなる独自の経本を用いて読経・唱題する

 

というものである。要するに、法華経による死霊供養である。

 

角太郎は、この西田の教えに傾倒していく一方、中山法華経寺(千葉県市川市)で行われる水行等にも参加する様になり、そこで霊能者若月チセと知り合った。チセに養母の「除霊の祈祷」をしたことが縁で一緒に修行をするようになり、角太郎はまたチセを通じ、戸次(べつぎ)貞夫と親交を結ぶようになった。

 

その結果、大正13年、角太郎はまたチセを通じ、戸次(べつぎ)貞夫とともに「霊友会」を発足させた。しかしこの会はあまりふるわず、やがて立ち消えとなった。

 

小谷キミ

 

キミは明治34(1901)年1月、神奈川県の下浦村(三浦市南下浦町)の飯田家に生まれ、小学校5年から女中として叔母の家に住み込み、大正7年には小田原の漁師と結婚した。しかし一年たらずで夫と死別したキミは、東京に出て女中をしながら転々とし、大正14年、小谷安吉の後妻となった。

 

翌15年と昭和2年の春、二度にわたって安吉が腰痛で立てなくなった。そのたびに反発しながらも、キミは角太郎の指示に従い一日5回、6回と水をかぶり、法華経による先祖供養を行うと、二度とも一週間ほどで安吉が立てるようになったという。これが機縁となり、角太郎の指導のもとに、キミは霊能者としての修行をはじめた。キミが行ったのは、

 

一、真冬に一日中、浴衣一枚で生活する
一、真夏に布団を首までかけて一日中過ごす
一、毎日、数時間に及ぶ水行(頭から水をかぶること)を実践する
一、51日間を1日1合のそば粉で過ごす。
一、21日間の絶食

 

などである。修行を終えたキミは、霊能者としての確信を持つようになった。

 

教団の変遷

 

昭和5年7月、すでに若月チセ・戸次貞夫と袂を分かっていた角太郎は、小谷キミ等とともに新たに霊友会の発会式を挙行し、元男爵氷山武敏を会長として、理事長に角太郎、名誉会長にキミが就いた。

 

しかし氷山が三ヵ月後会長を辞したので、キミが後任となった。本部を赤坂伝馬町のキミの自宅に置き、角太郎等は精力的な布教を展開するとともに、女性信者を次々と霊能者に育て、次第に教勢を広げていった。

 

同九年、『大日本霊友会報』を発刊し、同12年には東京狸穴(まみあな)に本部講堂を建てた。この頃から貴日蓮正宗の指導に対する教団幹部の反発が出はじめ、やがて同会を離れて新しい教団を設立する者も出た。

 

戦時中は、当局の新宗教の弾圧から逃れるため、子爵仙石家の娘の村雲尼公を総裁に迎え、さらに教団行事として毎月一日に伊勢神宮への参拝を行った。

 

同19年11月、53歳で角太郎が死去してからは、キミが全権を握って教団の運営した。

 

同24年、占領軍の捜索を受け、本部から金塊とコカインが摘発され、翌年にも脱税容疑で捜査が入り、麻薬を所持していたキミが検挙された。キミは間もなく釈放されたが、これらの事件によって幹部や会員の不満が一気に噴きだし、教団はあいつぐ分裂と多くの脱会者脱会者を出した。

 

キミは同28年にも、赤い羽根募金110万円の横領、闇ドル入手、増賄の容疑で検挙された。ほどなく釈放されたが、不祥事件の続発に霊友会への社会批判が集中した。

 

同39年、青年部員の錬成道場として、伊豆遠笠山「聖地弥勒山(みろくさん)」を建設し、弥勒菩薩像祀り、また新教典「弥勒経」をつくって弥勒信仰を取り入れた。

 

同46年2月、小谷キミは70歳で死去した。その後、会長に就任した久保継成(つぐなり)は、人間の心に帰ろうという意味の「いんなぁとりっぷ」キャンペーンを開始して教団の宣伝に努め、同50年には本部講堂を解体し、「釈迦殿」を完成させた。

 

しかし、やがて本部執行部との間に確執が生じ、平成5年に会長を辞任した。同8年に濱口八重が会長に就任し、同年11月からは「運営会議」と称する集団合議制を摂っている。

 

平成12年、会長の濱口八重が逝去したことによって、大形市太郎が第四代会長に就任した。なお、霊友会から分派・独立した教団は霊友会系諸教団と呼ばれている。

 

霊友会系諸教団一覧

日本敬神崇祖自修団
大正 14年 戸次貞雄
 日蓮宗法智教会
大正 14年 若月チセ ・ 久保角太郎
 正法会
昭和 06年 中村雅哉
 孝道教団
昭和 10年 岡野正道
 三界教団
昭和 11年 高橋角太郎
 思親会
昭和 13年 井戸清行
 希心会
昭和 28年 飯島将吉
 立正佼成会
昭和 13年 庭野日敬
 正法会
昭和 15年 芳賀寿郎
 正道会
昭和 15年 小川泉
 日蓮宗明宝教会
昭和 15年 小喜多はる
霊光会
昭和 15年 高橋成彦
 大乗教団
昭和 35年 菱沼甚四郎
 普明会教団
昭和 24年 鹿島俊郎
霊法会
昭和 24年 吉岡元次郎
 博愛同志会
昭和 25年 長沢銀次郎
 妙法教
昭和 25年 小野太郎
 仏所護念
昭和 25年 関口嘉一
 妙智会
昭和 25年 宮本ミツ
 法師会
昭和 25年 斉藤千代
 浄妙教団
昭和 25年 菅原国明
 大慧会
昭和 26年 石倉保助
 妙道会
昭和 26年 佐原忠次郎
 正義会
昭和 26年 山口義一
 瑞法会
昭和 28年 竹本千代
 大慈会
昭和 28年 岩楯岩吉
 成道会
昭和 35年 高山愛子
 正導会
昭和 41年 多胡俊夫

 

【 教義の概要 】

霊友会では「仏所護念の御本尊」と称する各自の”祖霊”を礼拝の対象とする。ただし、本部の釈迦殿には釈迦像、伊豆の「弥勒山」には弥勒菩薩像が祀られている。

 

霊友会では「霊界と娑婆世界とは表裏一体」と説き、先祖が成仏していれば子孫も幸せになり、先祖が迷っていれば子孫も苦難を受けると主張する。そこで霊媒者が霊界から仏菩薩を呼び出して指導を受け、また祖霊からは苦しみの因縁を聞き、それらの指示や因縁にもとづいて懺悔滅罪を祈り、祖霊を供養することによって、先祖も自身も悪い因縁を断ち切り、霊の加護を受けて家族の幸福と国家の安泰が得られるという。

 

また、教団では「大地のすべては妙と法の二つから成立している」といい、女性は陰にして妙を、男性は陽にして法をあらわすとし、妙法がそろってはじめて諸精霊に対する真の供養ができると主張する。その供養方法としては、男女ともにわかる限りの先祖の名前を本部に提出させ、その名をもとに生・院・徳の文字の入った戒名を本部が新たに付け、それを本部と家庭の両方で祀って供養をする。

 

具体的にいえば、全員家族にあっては、まず「総戒名」なるものを祀る。その基本形式は、

 

諦生院法道慈善施先祖 ○○家(夫方の姓)  徳起菩提心
○○家(妻方の姓)

 

であり、これと一緒に先祖の法名を命日ごとに記した霊鑑(過去帳)を仏壇に祀る。この法名も霊友会特有の、

○生院法○○徳善士(男性の場合)
○生院妙○○徳善女(女性の場合) というものである。

 

この総戒名と霊鑑の前に、コップに入れた水・線香・ロウソク・花・供物を供え、白地の片タスキ(前に「南無妙法蓮華経 霊友会本部」、後ろに「南無妙法蓮華経教菩薩法仏所護分別広説仏正」と書いてある)をかけて、朝夕三〇分ほどのお経と題目を上げる。

 

お経は「青経巻」と呼ばれる経本『南無妙法蓮華経 朝夕のおつとめ』にもとづく。これは『無量義経』『法華経』『観普賢菩薩行法経』の三部経の抄録と、先祖供養のための「回向唱」と「唱え奉る大乗方等教典は、為れ大慈大悲宝蔵なり・・・」ではじまる「祈願唱」を加えたものである。

 

会員は、本部で毎月行われる「在家のつどい」や「夕べのつどい」に参加したり、体験談を語り合う「法座」に出席する。また、弥勒山での大祭、セミナーや身延七面山恩師御宝塔参拝登山修行にも参加する。

 

特に、「おみちびき」と呼ばれる布教活動は、最大の功徳をもたらす修行とされる。

 

【 破折の要点 】

● 霊友会では、西田無学が主張した「仏所護念」の意義付けをそのまま踏襲している。本来、法華経に説かれる「仏所護念」とは、”正覚の仏が護り念じてこられたところ”との意味であるのに対し、西田は”死んだ人の霊のいる所を護り、念ずること”と間違った解釈をし、自らの先祖供養法の根拠とした。霊友会の教義は、このような誤った解釈をもととしている。

 

● 霊友会では先祖の霊を本尊としている。しかし先祖といっても、私たちと同じように一人の人間として苦しんだり悩んだりしながら生きてきた人たちであり、生前も死後も悪縁によれば苦を感じ、善縁すなわち正法によれば安楽の果報を受ける凡夫であることに変わりがない。いいかえれば人間は死ぬことによって、正しい悟りが得られるわけではなく、死者が子孫を守ったり苦悩から救うこともできない。したがって、先祖を本尊として祀り、祈願や礼拝の対象とすることは仏法上、大いなる誤りである。

 

● 先祖の供養方法について、霊友会では「総戒名を祀れ」と教えている。しかし、教団が所依の教典としている法華経のどこにも、「生院徳の文字を使った戒名をつけ、それを崇めよ」などとは説かれていない。

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