創価学会名誉会長・池田大作は、「日顕上人猊下(当時の猊下)まで、法灯連綿と血脈相承されている。」と指導しています。
「ご存知のとおり、私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、第二祖日興上人、第三祖日目上人、第四祖日道上人、および御歴代上人、そして現在は第六十七世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである。この一貫した仏法の正しき流れを、いささかなりともたがえてはならない。」
池田大作 「広布と人生を語る」 第3巻249頁
日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、『本門戒壇の大御本尊』であることはいうまでもない。 しかもその大御本尊は、日蓮正宗に厳然(げんぜん)とおわします。 そして代々の御法主上人猊下が『法水瀉瓶(ほっすいしゃびょう)・血脈相承(けちみゃくそうじょう)』され、現在は、第67世日顕上人猊下に、いっさい受け継がれているのである。 ゆえに私どもは、日顕上人猊下の御指南を拝しつつ、正宗の伝統と法義をふまえながら、勇んでそれぞれの国で、それぞれの地域で、信心向上のための教学を研鑚し、おおいに広宣流布に邁進していただきたい。
池田大作 「広布と人生を語る」 第1巻131頁
われわれは、あくまでも『本門戒壇の大御本尊』を信奉したてまつり、日顕上人猊下に随順し、多くの人々に、この大聖人の仏法を知らしめゆく、尊くも誇り高い人であるとの自覚をもっていただきたい。 この大仏法の究極唯一の法体は、申すまでもなく、「本門戒壇の大御本尊」であり、法灯連綿、御歴代の御法主上人猊下がこの大御本尊を厳護したてまつられてここに七百年、第67世御法主日顕上人猊下に、この絶対なる血脈は、厳然と承継されているのである。 だれ人がいかなる非難をいたそうが、これは侵しがたき、明確なる事実なのである。
池田大作 「広布と人生を語る」 第2巻122頁
創価学会名誉会長・池田大作は、「血脈否定は狂気の沙汰」と指導しています。
「日顕上人は、54年7月22日の日達上人の御遷化(ごせんげ)にともない、第六十七世法主・管長に就任。以来一年半にわたって、彼ら(正信会)も日顕上人を法主と仰いでいたのである。また、彼ら自身、かっては法主の地位や血脈相承についてうんぬんすることは甚(はなは)だしい謗法である、と明言していた。 こうした経過からも明らかなように、彼らの訴えは要するに、自分達の思い通りにならない日顕上人を法主(ほっす)の座から追い落とそうとした、タメにするものに他ならない。いかにタメにするものとはいえ、御法主上人の血脈を否定し、あまつさえ裁判に訴えるなど、日蓮正宗の仏飯をはんだ者には、およそ考えられない所業であり、狂気の沙汰としか言いようがない。」
池田大作 「創価新報」 昭和60年12月4日付
創価学会名誉会長・池田大作は、血脈相承にのっとった信心でなければ「無益(むやく)であり、功徳はない」と指導しています。
「日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『〇〇会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見から見ればわれわれと同じように見えるが、それらには唯授一人(ゆいじゅいちにん)・法水写瓶(ほっすいしゃびょう)の血脈(けちみゃく)がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つとも無益(むやく)であり、功徳はないのである。」
池田大作 「広布と人生を語る」 第8巻228頁
信心とは、本門戒壇の大御本尊を信ずることであると指導!
信心とは、本門戒壇の大御本尊を信ずることである。 総本山を中心とすることが根本であり、御法主上人猊下お一人が仏法の師でいらっしゃるのだ。
池田大作 「広布と人生を語る」 第3巻98頁
本門戒壇の大御本尊に帰依することが、私ども、大聖人門下の信心である。
池田大作 「広布と人生を語る」 第2巻124頁
信心とは、本門戒壇の大御本尊を絶対だと信じたてまつり、いかなる脅し、いかなる迫害、いかなる誘惑があったとしても、絶対、不退にして屈せず、ひたぶるに御本尊を受持したてまつり、広宣流布に邁進していくことである。
池田大作 「広布と人生を語る」 第1巻132頁